粗忽者たち

落語の演目の一つに「粗忽長屋」というものがある。

主人公は八五郎と熊五郎という二人の貧乏長屋の住人で、ある日、八五郎は行き倒れを見かける。それに掛けてある蓆を取り除けてみると、友人の熊五郎にそっくりだと言う。しかし八五郎は今朝、熊五郎と会ったばかりであり、その行き倒れの人は昨晩から倒れているというから話が合わない。

観衆がいぶかしがるなか、八五郎は当人を連れてくれば文句ないだろうと啖呵を切って、八五郎を呼びに行く。この時点でかなりおかしな話になっているのだが、そこは粗忽者。それなら仕方ないということで、話は進む。長屋に着くと、八五郎は起きていてキセルをふかしている。

八五郎は、そんな呑気な場合じゃない。お前、行き倒れているぞ!と八五郎にまくしたてる。昨晩はどうしていたと聞くと、彼はしこたま呑んで途中から記憶がないと応える。すると八五郎はきっとその時に行き倒れてしまったんだが、お前はそれに気がついてないだけだ。とかぶせる。

熊五郎も、なんとなく生きた心地がしないと言い出し、二人して行き倒れの現場に戻る。二人して蓆をめくると、熊五郎は少し自分とは違う気がすると言うのだが、そこは八五郎が一日も寝ていたのだからこんなものだと諭すと、熊五郎も納得して悲しみ始める。

そのままにはしておけないというので、二人して行き倒れの人を担ぐのだが、そこで熊五郎は「ところで担いでいるこの俺は一体、誰なんだ?」と問いを投げて話は終わる。

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落語って面白い。僕はこれを柳家小さんのもので聞いたのだが、ありありとした情景描写と、話としてはチグハグになってきてからの不条理な雰囲気がどこか『不思議の国のアリス』のようだと感じた。こんなことは、常識的に考えればありえない。もし行き倒れの人が知人に似ていたとしても、朝会っていて行き倒れは昨夜のことだと言われれば、そこで話は終わる。

それでも納得が行かず、本人にまで会えば行き倒れの人と熊五郎が別の人物であったと誤解が解けるのが筋というものである。しかしこの世界においては、当人の熊五郎も行き倒れてしまったと納得してしまうから不思議なのだ。

この不思議さをもっとリアリティのある形で私たちが考えようとするなら、ある日、知り合いがやってきてお前は死んでいると宣告される。一緒に死体を見に行くと確かにどこか自分に似ている。他の人に確認してもその死体がお前だと言われるようなことを考えてみて欲しい。(熊五郎は身寄りもないとされている)

どのような反論が可能であろうか?

たぶんどのような反論も無効だ。この時になって、この落語の怖さという側面が際立ってくる。つまり自己同一性とは他者によってのみ担保されているというシンプルな事実である。もしデカルトがここに居合わせて「我思う、ゆえに我あり」なんて言ったって、それはお前の了簡が狭いなんて言い負かされてしまうだろう。

粗忽とはもともと「軽率」であるとか「そそっかしい」という“軽さ”と関係する語である。立川談志はこの演目を主観が強すぎるから「主観長屋」と改名して演じたらしいが、むしろその主観が軽すぎるのである。落語の演目を聞いていると、このように主体性の希薄な人物というのがしばしば描かれる。

さらに時代を遡って平安まで行くと、『源氏物語』の語り手の主体性が複数に分裂していたりするのを見ることができる。現代の私たち(この「私たち」という主語こそが問われているのだが)からすれば、自明な「私」もこのように曖昧になってしまう時代があったのである。

このような現代からすれば希薄な自我観は、どうやらその起源を遡ると先史時代まで行くようである。もっと分かりやすくするなら、ライブやお祭りでの「一体感」を考えて欲しい。

そこで一々「私ーあなた」の構図を持ち出して考えているだろうか?モッシュが起きる時、踊りに混ざる時、その時の「私」は限りなく希薄である。しかしここで当然の反論が予想される。つまり祭り以前と以後という連続性を支える主体から導かれるような自我の存在である。

例えば先のお前は死んでいると言われた時のことを考えてみるなら、私たちは昨日の私と今日の私の連続性を強調することによってなんとか自我の同一性を証明しようとするだろう。「既死」宣言はなにも犯罪ではないが、犯罪の濡れ衣を着せられた時に私たちが行うのは破綻のない一貫した自我の提示である。つまり私たちにとって、私たちの最後の砦は昨日の私と今日の私、そして明日の私の連続性なのだ。そしてこれを疑うことが困難な信仰のレベルにおいて「私」の立脚点としている。

カフカの『変身』が悲劇なのはこの信仰のためであるし、自殺がリアリティを持つのも、明日の私を今日の私の延長線上に置くからである。もし変身して、それ以前のことを完全に忘却してしまったら、変身にさえ気が付かない。(もしザムザが粗忽者であったら……)

ここから「明日への憂慮」は、自我が優位なポジションにおいて生じるといえるかも知れない。勝利のための戰いや、労働もまたこのポジションに属している。ここで奇妙なのは自我が優位になると、その連続性を担保する「過去」と「未来」に「現在」が隷属させられてしまうということである。

現在を担保するのは過去や未来であるという考え方である。過去から考えて私は私であり、ある未来の到達点をもってして私を定義するのだ。しかし粗忽者たちは、そう考えない。過去の私よりも現在の私を私と定義づけるのである。ただ現にそこにある存在を仮に「私」と呼ぶのだ。

だから「担いでいる俺」という主体は崩壊せず、それが「誰」なのかが問われたのだ。少し哲学的な言い方を許してもらえるなら、存在者が問題ではなくその存在様態が問われたのだ。もっと別の言い方をすれば、それは何か?ではなく、どのようなものか?が問われているのだ。

この粗忽者たちの共同体、つまり粗忽長屋にこそ、私たちの偏った自我観を補正してくれる鍵があるような気がする。少なくとも、彼らはある存在様態を笑いと共に教えてくれるのである。

笑いとともに。

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