プロフィール的な

よいプロフィールとは、死後、誰かによって書かれた墓碑銘のようなものだ。

けれど「君は誰だ?」と言われた際に、さっと出せる名刺の一枚でも持っていたほうがよいのもまた事実であろう。それが「作品」であればなお善いけれど、そのようなものを望めばいつまで経ってもその名刺は完成しなくなる。したがって、そろそろ僕もそんな名刺の一枚を作ろうと思って、このテキストを書いてみようと思う。

現在の社会的肩書としては「学生(修士2年)、会社人、個人事業主」の3つを持っている。このうちのどれが先に無くなるかは、時間の問題であるし大した問題ではない。

君はなにを成したのか?それとも成そうとしているのか?と問われた時、的確に応えられる方が重要だからだ。

醜い大人のなかには、理想や夢を語ることはその人間の根幹に関わるため、語らないという臆病な人々がいる。僕はそのような大人とは縁を切っておきたい。理想や夢は語り得ないからだ。「秘するが華」とは風姿花伝書の一文だが、これは秘するものを持つ者の言である。したがって、秘する人々はその自らの野心が秘するに値すると思って疑わぬ人々ということになる。

僕には秘するに値する野心も欲望も夢も理想もない。その場限りの思いつき、ワクワクすること、楽しいひと時、そのようなものが大切だから。永遠不変の理想も夢も一時の喜びの前では、灰燼に等しい。それでも僕がどのような人間であるかは語りうる。

まずもって、このような長たらしい枕を書くことに愉悦を覚える人間であるということ。文章を書くことがなによりも好きだが、同時にお喋りも大好きである。どちらにも共通するのは他者や、他人に関わることである。しかし、僕は――この主語がもつ青臭い響きを保つために僕は僕という主語を選択している――人間関係があまり得意ではない。ひどく嫉妬したり、悲しんだり、傷つくことの方が多いからである。

ではなぜそれでも「他」なるものに関わるのか?と問われれば、それは「M」だからだと応える。Mという字は僕のイニシャルでもあるから、都合がよい。マゾの意味ももちろんある。むしろ人生という苦痛(僕にとって人生は苦痛だ)にあって、それでも日々、このように恥知らずな文章を書いている人間が、マゾ以外の何者であるというのか。

そこから派生して、僕は哲学と呼ばれるものにとても強く惹かれている。ただし、哲学と言っても王道ではなく、邪道な哲学である。なにせ研究対象であるその人が自分を哲学者ではなく、狂人、もしくは聖人であると自称しているのだから。彼の名はバタイユと言う。バタイユについては、いずれ書くし、いま修論でも扱っているから省略するが、彼の思想の肯定的側面になにより惹かれる。平等な肯定や博愛ではなく、人間の醜い部分を肯定することでその総体としての人間を考えようとした思想家だからだ。

哲学に惹かれる前には芸術に惹かれていた。これまた人間の生の露呈に関わり、そしてまた不快さと密接に関係する領域である。それ以前はデザインを学んでいた。

最近はその決算としての雑誌「NOUMU」を創刊することが叶った。ご興味のある方は読んでいただきたいが、少なくとも僕の文章にはなんの価値もない。ただそれでも唯一、誇れることがあるとすればそのような無価値な文章を露呈できたことであろうか。

これからもこの露呈をやめるつもりはない。バカにされようと、無視されようと、知ったことではない。

笑われるがままにせよ。

ここまで読んでくださった方には、僕のやっていることの具体的な側面をちらっと書いておきたい。

・美術に関すること。友人の展示のキュレーション(僕としてはドラマトゥルクという言葉を使いたいが)のようなことと、作品に言葉をよせること。

・哲学に関すること。これは修論という内輪な形ではあるが、近いうちに作品として完成される。

・デザインに関すること。NOUMUのデザインやサイトのデザインなども行っている。会社では総務を担当しているため、ある組織を動かしたり、バランスをとったり、対外折衝などもデザインに含めて良さそうだ。

 

と、さしあたりはこんな感じで書いておく。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です